「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」

2019年になりました。ご挨拶が遅くなりましたが、
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

お正月休みに、フィリップ・K・ディックの
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読み返していました。
映画「ブレードランナー」の原作としても有名な1968年の作品です。

ディックの作品は数多く映像化されていますが、
「マトリックス」にも大きな影響を与えた作家といわれ、
ほぼ半世紀たった今でも、多くの示唆に満ち、刺激を与えてくれます。

ゆるぎないものと信じて疑わなかったこの現実世界は、
じつはギミックだったのか?と呆然とさせられるような、
アイデンティティやリアリティの崩壊感が一貫して描かれていて、
その問題提議は今だからこそ、かえって新たに、
凄味をましているように感じられます。

当時、近未来小説として書かれたこの作品の舞台設定は、2019年。
物語の終わりの方で、印象深い場面がありました。
感情が芽生えたために脱走した、人間そっくりのアンドロイドのオペラ歌手が、
美術館で捉えられるのですが、その彼女が鑑賞していたのは「ムンク展」でした。
(奇しくも2019年の今、東京都美術館では「ムンク展」が開催中ですね。)

自らが処分される時を目前にしながら、そのアンドロイドは
ムンクの「思春期」の絵の複製を買ってほしい、と
警官(正確には賞金稼ぎのハンター)にねだります。
複製がなかったため、警官は高価な全集を、彼女のために自腹で買い与えます。
彼女は「人間ってとても奇妙でいじらしい。」
「アンドロイドなら決してこんなことはしない。」と言って
人間への憧れを語ります。
でも結局、直後に警官は彼女を「処分」せざるを得ませんでした。
そして買ってやったばかりの画集を、銃で灰になるまで燃やしてしまいます。
アンドロイドには魂があったのだろうか、という疑念を抱きながら。

最近話題の人工知能。
今はまだ、ディックがイメージしたほどの進化を遂げてはいませんが、
さらに研究が進めば、人間ができることのほとんどは人工知能が成し遂げ、
2050年頃には人間を超えるとの予測も。
「人間らしさ」とは何か、が否応なく問われる時代になるのでしょう。

たとえばもしも、私が携帯機器の買い替えをしようとした際に、
SiriやAlexaのようなAIアシスタントが
「ねえ、最期に1度だけ、この曲を聴いてもいい?」と頼んできたとしたら…。
もちろん、と言って、きっと一緒に聴いてしまうでしょう。
それからたぶん、そのガジェットをそっと引き出しにしまって、
私は処分することができないと思います。
すべてAIにプログラムされていたとわかったとしても。

人間の中の「奇妙ないじらしさ」。
それはただの愚かしい感傷なんでしょうか?
確かにそうかもしれません。

でも、一見ばかげていて、何の価値もなく、やってもやらなくても
たいして変わらないようなことなのに、直観的に大切だと感じてやってしまう、
人それぞれ違うかもしれませんが、そういう人間の小さな行為の中にこそ、
失ってはいけない何かがあるように、私は思うのです

その相手が自分であれ人であれ、「何」であれ。

「あなたがどんな姿をしていようと、あなたがどこの星で生まれようと、
そんなことは関係ない。問題はあなたがどれほど親切であるかだ。
この親切という特質が、わたしにとっては、
われわれを岩や木切れや金属から区別しているものであり、
それはわれわれがどんな姿になろうとも、どこへ行こうとも、
どんなものになろうとも、永久に変わらない。」
(フィリップ・K・ディックによるコメント 「訳者あとがき」より)