今でもたまに思い出します。前にも書いたかもしれません。
小学校低学年くらいの頃、ひとりでままごとをしていて、
神様のためにと、泥団子でごはんを作っていたことがあります。
高いところに上げなくては、と考えて、
なんと実家の屋根にまで上って、お供えをしました。
(※良い子は決してマネをしないでくださいね。)
その時、まわりの空気が和らぐのを感じ、
神様というのは、こんなふうに、この世界ぜんぶのことを
指すのかなあ、と子供ながらに思うものがありました。
たぶん私の原点はそういったところにあるといいますか、
結局そこからぜんぜん成長していないと思います。
今、なぜかヒーリングセッションの中では、
おもむろにSFファンタジー系なビジョンが多く、
複雑に次元が現れたり消えたり、交錯していくさまを見ますので、
人は生きるストーリーそのもの、のように思え、
宇宙はひとりひとり、まったく異なりつつ、また干渉しあいつつ、
瞬間瞬間織りだされる立体タペストリーのようなもの、
という漠然としたイメージを抱いています。
とはいえ、そこはそこ、ここはここ、の次元であって、
日常的には私も、時間や場所やお金やらに拘束されて、
雑事に追われ、きゅうきゅうと過ごしています。
ただ、「そこ」のイメージが傍らにありますので、
「ここ」におけるプライドもコンプレックスも重みを失い、
過去からの威圧感もほとんどなく、
生きる上での幸福度は、昔より格段に上がりました。
これ以上もっと、という気持ちも薄れてきましたので、
パワースポット巡りなども「もういいかな」という気になって、
引越しの際には神棚もお納めしてしまいました。
そのわりには引っ越したい物件の条件を書き出した時
「素敵な神社が近くにある。」を最初に挙げていて、
自分で自分がよくわからんな、と首を傾げていたのですが。
念願かなって、どんだけぇ~、、、というくらい、
神社仏閣の多いエリアに転居することになりました。
そして、新型コロナウィルス感染症拡大防止のため、
二度目の緊急事態宣言が発出された後、
私は初めて「世の中の安寧」というものを、
リアリティを持って、近隣に祈り歩くようになりました。
すると、神仏の御心、といいますか、
宗教に関わらず、高次の意識というものは、
いかにそのことを深く願い、人々を守ろうとしているか、
また私自身も、どれほど見えない世界の守りを受けているか、
という…その認識に、サーッとライトが当てられ、
一気に視界がひろがったと思ったら、
もう泣けて泣けてどうしようもなくなってしまった、
という出来事がありました。
こうした高次意識は、私が冒頭で書いた神の感覚とは、
まったく別の次元のものだと思っています。
不敬な表現にはなってしまいますが、
人々の無意識にある巨大レンタルサーバであり、
ログインすれば、エネルギーに繋がってサポートを乞えるという、
そのようなタイプの意識だと考えています。
宇宙人とのチャネリング、もこういったものにあたり、
大元では自分の宇宙によるプロデュースだろうと思います。
しかし、そうであってもここはここ。
ここの浅はかな私からはありがたい恩恵です。
自分に偏狭さやおごりがあったことを反省し、
聖地を訪れて、自分自身の調律をすることは、
私には合っているのだな、とあらためて気づかされました。
ちなみに、私はクリスチャンではありませんが、
許可を得て教会のチャペルに座らせていただくこともあります。
日本の神社などでも、海外の方が参拝されている姿を見かけますが、
真に高次意識であれば、ただその人そのままを受け入れ、
信心や、まして宗派などにはこだわらないと私は思っています。
私も特に信心深いわけではありません。
ただ、神社などでは、うかがってみると、
ご由緒に書かれている神様とは違うような…と感じることが少なくありません。
歴史にもまれ、最初の感性からは離れた展開になっている場合もあります。
あれこれ詮索するというよりは、そうしたところでは、
自分の感覚に集中するようにしていますが、正直気にはなります。
願掛けは良いと思うのですが、どんな場合でも依存しないで、
自立した意識として向き合うことは大事ではないかと思います。
帰するところでは、そうしたあらゆるストーリーの果てに、
子供心に感じた「神」というものについて
私はいつも思いをはせてしまうのです。知りたいというより趣味なのです。
最近のマイブームは、神というのは「希望」のことではないか、
などと、考えをめぐらせています。
創造の、始まりのほんのひとしずく。光の萌芽。
希望がなくては人は生きてはいけません。
もうダメ、と倒れそうになったら、片足が支えようと前に出ます。
さらに倒れそうになったら、もう片足が出ます。
そして、なんとか、前に、進ませる力、
その力の源泉は希望ではないでしょうか。
希望はどこから湧いてくるのでしょうか。
わからないけど、人はやっぱり生かされているのだなあ、
などと、バスの中でしみじみ考えにふけっていたら、
「生かされている命を大切に…」と車内アナウンスが流れ、
びっくりして飛び上がりそうになりました。
交通安全のためのスローガンだったようでした。
じつはこのエピソードが書きたくて、この記事を書いたのでした。