過去生という概念

ヒーリングセッションの中で、その方の過去生と思われるビジョンが
現れることがしばしばあります。
過去生という概念は、誤解されていることが多いように感じますが、
人それぞれの解釈があってよく、闇雲に信じるべきものでもないので、
私の考えもマイノリティに過ぎないとは思っています。

最近の量子力学の分野では「観察する」人の意識が物理的な現実を変えてしまう
という可能性(観測問題)が注目されているそうですが、
はっきりわかっているわけではありません。
このことが実証されることになれば、人々の意識は根底から変わるでしょう。
当然のようにモニタ画面を通して世界と接触するようになった私たちは、
無自覚的にであれ、少しずつ仮想現実というものを受け入れながら、
次なる時代への準備を進めているのかもしれません。

私は子供の頃からSF的でリアルな感触の夢を見ることが多く、
自分は複数の次元に同時に生きているのではないか、
という奇妙な感覚がありましたので、
多次元というものの考え方に違和感がありません。

瞑想中に宇宙人風の母子が現れて、ヒーリングしてください、と
依頼されたことがありました。
背後に未来都市のような風景がぼんやり見えて、どこか懐かしく、
これは私の過去生とか未来生とか、そういう関係筋なのかな?と感じながら、
親しい気持ちでヒーリングを行いました。
おかしなことに、後からでも「彼らはどうしているだろうか?」と
思い出したりします。
また、セッション中に出会った、クライアントさんの過去生の方々も、
私にはリアリティのある、本物の人との出会いに感じられ、
過去の存在なのに、やはり同様に「あの人はどうしているかな?」
などと思ってしまうことがあります。
ここでしか言えませんが、私の時空感覚は、しばしばパラレルなのです。

しかし、控えめに言っても、宇宙に時間はないのですから、
魂が時系列的に経験を重ねているのではなく、
今この時点ですべて関連している情報だという
可能性はあるのではないでしょうか。

IT用語を借りて例えるなら、あるバグを修正することは、
プログラム全体の、ひいてはネットワーク全体の変化にも繋がります。
過去生のストーリーは、その方だけのものではなく、
他の人々とも共有している情報でもありえますし、
また過去を癒すことは、現在も未来も癒すことであり、
現在を癒せば、過去も未来も癒され、
ひいては世界を癒すということにも繋がると、私は考えています。

そう考えれば、過去生は偉大な人物だった、などと得意になったり、
極悪人だったのか、と落ち込んでみたりなど、
そのストーリーに執着することは、ただエゴを着ぶくれさせる
幻想に過ぎない、ということに気づかされます。

むしろ「輪廻転生だなんて、本当かなぁ?」くらいの
半信半疑でいる方が好ましいかもしれません。
「そういうこともあるかもしれないねっ。」と、
未知なるものにただ少し窓を開いておく、
頭の片隅に余白を残しておく、くらいが、この次元に
普通に生きる者として、より健全な感覚ではないでしょうか。
スピリチュアルなものの見方に冷静さは大切だと思います。

しかし一方で、時には感情を思いきり解放させ、それを感じ切る、
ということも必要なことがあります。
私自身も、ヒプノセラピストやアカシックレコードに触れる方々から、
いくつかの過去生のストーリーを教えていただいたり、自分でも見たりして、
大泣きもし、腑に落ち、癒やされたという、深い経験が何度かありました。
それは潜在意識が見せてくれる映画のようなものだと思っています。

私にはわかりませんが、クライアントさんの過去生も、
きっと理由があって現れているのだろうと思いますので、
ただそのまま、判断をせずにお伝えするようにしています。
ヒーリングエネルギーは、その事象に対して働きかけています。

ちなみにIT業界では「バグのないソフトウエアはない。」と
言われるそうですが、人間も同じではないかと思います。
また「寝ているバグは起こすな。」とも言うそうです。
システムが正常に動いているように見えれば問題ないわけです。
バグも、修正されるべきわけがあって発現しているのかもしれませんね。

鍼について

「人を癒やす前に、自分を癒やしなさい。」とは、あるメンターから
いただいた言葉ですが、だからというわけでもないのですが、
「自分を癒やす」ということには、けっこう関心があります。
ちょっとした趣味といえるかもしれません。

セルフヒーリングもしますが、ほかの方のセッションもよく受けます。
エネルギーワークにこだわらず、いろいろ受けたいのですが、
残念なことが1つあります。背中を触られたくないのです。
エステやヒーリングの宣伝で、女性がうつ伏せになって、
うっとりしながら背中をマッサージしてもらっている写真をよく見かけますが、
私にはまったくわからない感覚です。

人をはげます時や、いたわる時に背中をさすってあげる、という仕草は、
おそらく本能的なものですから、もちろん癒やし効果をもたらす行為に
違いないとは思うのですが。

自分でヒーリングを行うようになってから、いっそう著しくなってきました。
背骨付近が異常に敏感で、エネルギーセンサーのような感覚があり、
実際に触れられなくとも、手を近づけられるだけでも、神経質に反応します。

街をちょっと歩けば、整体・マッサージ関係の店舗を見かける時代です。
コンビニより数が多いそうですから、それだけ需要があるんですね。
好奇心半分、憧れ半分、ここなら大丈夫かも?と何度かチャレンジもしましたが、
やっぱりダメでした。施術者による、とかいうレベルではありません。
もうねぇ、背骨が…。舌打ちしそうなくらい、いや、涙目になりそうなくらい、
嫌なんですよ。触るな危険。
だったら行くなよ、ということなんですけども。

でも、それさえクリアできれば、およそ大丈夫。
じつは最近ハマっているのが「鍼(はり)」。鍼灸の鍼です。
たまたま自分のセッションで、鍼のようなビジョンが出現するので、
肉体を超えた経絡、というものを意識するようになりました。

顔だけを施術してもらう美容鍼から入り、この繊細かつ奥深い技に
だんだん魅せられてきました。
特に、ピタ、ピタ、ときっちりポイントに鍼を打つ方は素晴らしいです。
妙なたとえですが、実際に鍼を打たれた肉体よりも、
数センチ~1メートル近くも上の、見えないボディの上で
まるでビリヤードが行われているかのように、パンパンパン、と
エネルギーが共鳴しながら拡がっていく感じがするのです。

「おぉ、おもしろ~い!」と表情を変えないまま、こっそり喜んでいても、
そういう方はすぐ「何か特殊なことをされてるんですか?」
などと気づいたりします。巡り方が違う、のだそうです。
背中はさすがに無理ですが、その部位を避けても十分効果を得られますし、
私の場合は、感情体にも大きく作用しました。
鍼は心にも効く、というのは本当だと思います。

ヒーリングの技法としては、鍼灸はクラシックですが、最近また少しブームが
きているのではないでしょうか。
徒弟制度の時代に比べると、鍼灸師の技術の差が大きくなった、とも聞きますが、
優れた鍼灸師さんは、ことさら意識されずとも自然にエネルギーワークも
使われていると感じます。
“気”と表現する方が適切かもしれませんが。

鍼治療を受けていると、自分の変化がとても具体的に感じられるので、
しばらく続けて探究してみたいと思っています。
私のセッションでは、エネルギー鍼、というか、エアー鍼、という感じですが、
オリジナルな手法にしていけたら、とも考えています。

伊勢神宮への旅

夏至前の週末に、伊勢神宮に参拝してきました。
奇しくも、故郷の神社を巡ってから伊勢に入るというプランで、
あらゆるレベルで自らのルーツを確認するような旅でした。

出発の2日ほど前、瞑想中に小さな子狐が現れ、
ふんわりした白い衣のようなものを差し出してくれました。
(妄想と思ってください。)
これを着ていって、という意味に見えました。

私は元々、稲荷と縁が深いようなのです。
狐というのはご眷属、つまりお使いですが、
稲荷といえば、ダキニ天かウカノミタマか、仏教か神道か、
あるいはエジプトのアヌビスの親戚か、
はたまたアヌンナキか、宇宙系か、など、
いろいろな物語を聞きますが、
私にはただ、ザ・イナリネットワーク、とでも呼びたいような、
日本人の集合意識の中で、自然と人間界のはざまに存在する
自然霊ネットワーク、ととらえる方がしっくりきます。
グラウンドに近い部分で、人間界をサポートしているイメージです。
エネルギーそのものは、あれこれバラエティがありますが、
イナリに出会う時はいつも、忘れかけていた原始的な何かが
強く喚起されるような気がします。

白い衣をまとうように、あらたまって行け、というのは、
日本の自然霊の最高峰にご挨拶するのだから、
ということかな、と考えました。
このことは、多くの解釈がありますので詳しく書きませんが、
推察される方もいらっしゃるのではないでしょうか。

さておき、この旅でありがたかったのは、
ツアーガイドの方が時折、
神社の中心からやや外れた、ご神域内の自然の中で、
沈黙の時間を設けてくださったことでした。
神社ツアーというと、強いパワースポットを忙しく回ったり、
何か素敵なサインを期待したりしがちですし、
内観する時間を持てないことが多いものです。
しかし周辺の自然の中には、踏み荒らされていない、
精霊たちの豊かな世界がありました。

そうした清々しい林の中で、一本の木の新芽に指が触れた瞬間、
まるでタッチパネルで何かのスイッチを入れたかのように、
輝く蜘蛛の巣のような、光のグリッドに、
サーッと繋がっていく感覚がありました。
植物たちのネットワークだと感じました。
自然の秩序によって私のゆがみが矯正され、
知覚が少し拡がったのだと思います。
私が誰であるか、が消えて、自然の中に浸透していったようでした。
「アバター」という映画に出てくる森を思い出しました。
もしもそこで、悪意を持って、その芽を傷つけようとでも思えば、
その衝撃波は、あっという間に自然界に伝わるのでは、と思うほど、
繊細かつ精妙な世界でした。

それは特殊なことではなく、むしろリハビリのようなものだったと思います。

伊勢神宮に参拝することは、日本人として高揚する体験で、
そのこと自体にも感慨はあったのですが、
一方では、何かに触れようと意図すれば、その瞬間に、
ネットワークに影響を与え始めているということ、
そして自らの内奥深くに耳を澄ますことができれば、
逆説的ですが、自らがネットワークの一部であること、
つまりは宇宙のひと雫であると知ることになるのだと、
つくづく実感する旅となりました。

旅立った友のこと

2年前の夏、大切な友人を天国に見送りました。
彼女と一緒に、初めておそるおそる瞑想会というものをのぞいたり、
神社めぐりをしたり、本を読んで不思議な世界について語りあったりしました。
友がいたから心強く、この世界に足を踏み入れることができたのです。

私自身は、ある意味、特殊な宇宙観を持っていますので、
死をネガティブなものとは考えていません。
今でも彼女の存在を感じますし、夢で会うこともあります。
それでも時々、さびしくなります。
ただ一緒にお茶を飲んだり、冗談を言って笑いあったりしたいだけなのです。

彼女を見送ってから、この後の人生は好きなように生きよう、と決心しました。
それから、ちょっぴり、人に優しくなったように思います。
少なくとも、人との出会いを貴重なことだと感じるようになりました。
出会うだけでも意味があるのに、心許し合える友達になれるなんて、
素晴らしいギフトのようなものです。
でも、どのみちいつかは誰しも別れ、この人生劇場を退場するわけです。
いつまでも友と肩を並べて歩けるわけではありません。
そのことを忘れないでいよう、と思うようになりました。

人は永遠の幸せに憧れるものかもしれませんが、
永遠の幸せから見たら、人が泣いたり笑ったりして魂を成長させる姿が
うらやましいかもしれません。
人と経験を共有すること、1つのものごとを別々の角度から見合うこと、
そのようにして私達は共に生きているのだと実感することは、
大切なことだと思います。

“スタンド・バイ・ミー”という歌がありますが、恋愛に限らず、
普遍的な人の思いがシンプルに歌われていて、とても好きな歌詞です。

If the sky that we look upon
たとえばもし、見上げる空が
Should tumble and fall
ある日突然、崩れ落ちてきても
And the mountains should crumble to the sea
山々が崩れて海の底に消えてしまっても
I won’t cry, I won’t cry, no I won’t shed a tear
僕は泣かないよ 涙なんか流さない
Just as long as you stand, stand by me
きみがそばにいてくれるなら

And darlin’, darlin’, stand by me, oh stand by me
Stand by me, stand by me, stand by me
だから、ダーリン そばにいておくれ

Whenever you’re in trouble won’t you stand by me, oh now now stand by me
困ったことがあったら、いつでも僕のそばにくればいい
Oh stand by me, stand by me, stand by me
ねえ、そばにいようよ そばにいておくれ

Ben E. King – Stand By Me

ひとりでは生きられない、とよく言いますが、
ひとりではないから生きられる、のですよね。
友人は旅立ってしまいましたが、
彼女が残してくれたさまざまな思い出は、
今もそばにあって、私をあたたかく支えてくれています。

偶然の出会い

ふと、名刺を作り直さなければ、と思い立って、初めてオンラインマーケットで検索し、
Cさんというグラフィックデザイナーの女性にコンタクトしました。
驚いたことに、折り返しいただいた返信には、彼女も以前ヒーラーをしていたことがある、
と書かれていました。

とてもセンスの良い方で、名刺のデザインはすこぶる順調に進み、
満足のいくものを作っていただきました。

そのうち、遠隔ヒーリングの交換セッションをしましょう、ということになりました。
私はCさんにお会いしたこともなく、ご本名も、どのようなヒーリングをされるのかも
知りませんでしたが、とてもクリアな方だという信頼感があったので、
日時だけ約束をしました。

ところがその夜、 Cさんのヒーリングが始まったとたん、あまりのパワフルさに
目が点になってしまいました。
脳にグイグイと働きかけるエネルギーで、次元がグニャリと変わっていくような
感覚がありました。
次第にハートが解放されるのを感じ、深く癒されていきました。
終わった時には、うれしくて「Cさん、素晴らしい!感謝感謝!」と
思わず拍手をしてしまったほどでした。
その後続いて、今度は私からCさんにヒーリングをさせていただきました。

翌日、互いのセッション内容をメールでシェアし合って、さらにまた、
シンクロや繋がりの多さに、鳥肌が立ちました。
Cさんのヒーリングは瞑想をベースにされていましたが、その知覚世界は、
私のものと似た雰囲気がありました。
またエジプト、過去生と未来生、天体、鉱物…といった、共通したモチーフが
両方のセッションに現れていました。
彼女の描写はとても幻想的で美しく、示唆に富んでいました。
許可を得て、一部を引用させていただきます。

***

それを癒そうとすると、すぐに透明になって行って、キレイな女性へ。
でも純度が高いのか透けていて白い薄い線画のような感じです!
もう、癒すところがない感じで(笑)
山口さん、とっても軽いなぁ…!という感覚です!

その女性は白い線画と透明の間で行き来をしていたのですが、
透明というのは全て内包していて、何者にもなれるし、何にでもなれる、
というようなことを伝えてくれました。
(光、色はすべてを内包していると透明。
わたしたちのみている空気が透明なのは全てが内包されているから)

彼女は踊りながら空中からキラキラした光(色)を次々と取り出して
虹色の輝きを振りまきながら、クルクル舞っていました^ ^

そうこうしているうちに、黒い球体が出てきて、
これは何かなと思っていると、地球という回答でした。

わたしたち(山口さんとわたし)は癒されているから、
地球(宇宙そのもの?)を癒そうという趣旨(?)のようです。

その球を柔らかいエネルギーの膜で囲って、癒そうとすると
マカバの形が出てきたあと、先ほどの透明な女性がまた現れると
鏡合わせのように2人に分かれたあと
左右半分づつゼリーのようなシャボン玉のような雰囲気の
透明のまぁるい枠を地球の球体を忠実に作ってくれました。

そうするうちに透明の2人の女性がグルグルと回り出して
地球を左右に割って、ぐるっと回しました。
(わかりにくいですが、ルービックキューブをぐるっと回す感じです)

それをどんどん繰り返すビジョンで、
あぁ、山口さんの回るエネルギーってこういうことか、
命をつくるってこういうことか、となんか納得しました 笑
そして、その女性たちは、これは卵割ですっておっしゃっていました。

わたしにはピンと来ていないのですが、
球は命、地球も命、人間も命、巡る、回る、
ということを伝えたいようでした^ ^

そのあとはブラックアウトし、
しばらくは黒い(暗くはないです!)場所に、
銀色の輝きがさらさらと落ちて来ることが続きました。
(砂時計の砂のような、でも、もっと色々な粒の大きさの粒子が流れていて…
ナウシカの、腐海の森の中に落ちて、天井からサラサラと砂が落ちて来るような、
あのイメージに近いです!)

これもとっても綺麗で、時の流れとか、エネルギーの流れとかを表している、
その場を整えているのかな、と感じるビジョンで、
も山口さんがされているお仕事の象徴なのかなと感じました。

***

2人の女性のメタファーが興味深く、読み返すたびに気づきがあります。
合わせ鏡をのぞくような、不思議な感じがしてきます。

じつは、セルフヒーリングをしながら、よく地球へのヒーリングもしています。
こう書くと、なんだか偉そうな感じですが、
ただ宇宙にポツンと浮かぶ青い宝石のような星の姿が、
子どもの頃から好きだったので、ほとんど地味な趣味、という感じでした。
ですから、Cさんの言葉にはとても驚き、励まされるものがありました。

おそらくデザインというのもヒーリングの1つの表現といえるのでしょう。
Cさんはヒーラーとしても素晴らしい能力をお持ちですが、
グラフィックデザインを通じても、美しく整理された視覚的な情報によって、
実社会において癒やしの仕事をされているのだと思います。

そう考えてみると、どんな仕事にも(有償無償に関わらず)創造的な要素はあって、
対人間に限らず、癒やしに繋がる奉仕的な部分が、本来どこかにあるのかもしれません。

人との出会いに偶然はなく、周波数の似たものに出会うのは自然の法則だと
私は思っているのですが、それにしても、瓢箪から駒、というか、
ドラえもんの異次元ポケットというか、
世の中いったいどこから何が飛び出してくるか、わからないものです。

ともかくも、Cさんと巡り合えたことはありがたく、光栄なことでした。

そしてあらためて、地球のことを想います。
彼女の文章を読みながら、
天文学者のカール・セーガンの言葉を思い出していました。
ご存知な方も多いかもしれませんが、こちらにリンクでご紹介します。
Pale Blue Dot